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代官山物語


戦前

母が生まれたのは、豊多摩郡渋谷村猿楽町です。今の代官山のヒルサイドテラスの前、旧山手通りの真上です。小高い丘の上に屋敷があり、坂を下ると渋谷川が流れていました。渋谷川は今でもちゃんと流れています。反対側の坂を下ると、目黒渓谷があって、新緑の季節や紅葉の季節はなかなか美しいものだったようです。猿楽小学校の低学年の遠足は、この目黒渓谷でした。

八幡通りは当時から今と同じところにあって、母はこの通りを歩いて下って青山学院の女学校まで通っていました。途中に八幡金王神社があるので八幡通りと名づけられたわけです。八幡金王神社の前の坂道では、当時の青山学院大学自動車部が部所有のポンコツ車のエンジンをかけるのに「押し駆け」をするのに使っていました。えいさえいさと車を押して走り、エンジンがかかったら全員が車に乗り込むわけですが、坂を下って明治通りに出たところでエンストして立ち往生しているのが当時の風物詩であったようです。

このあたりには氷川神社もあって、氷川様と呼ばれていました。氷川神社はもっと実践女子の方にあります。八幡様、氷川様の二つの神社のお祭りが、当時、このあたりに住む子供たちにとっての最大のイベントでありました。お祭りの日には、親から五十銭のおこずかいをもらって神社にゆきます。五十銭もあると、おもちゃを買ったりやお好み焼き(当時のお好み焼きはもんじゃに似て、具はひとつだけです)を食べたり、充分楽しめたそうです。

戦争がはじまる

太平洋戦争が近くなると、国内の生活にもいろいろと変化がおきました。母の家にとっての最大の事件は、軍用道路建設のために屋敷が接収されてしまったことです。今の旧山手通りは当時、軍事目的でつくられた道路なのです。母は、今でも旧山手通りのことを軍用道路と呼びます。

すぐそばのちいさな都営住宅に移り住んだ一家にも戦争の影響が及びはじめます。青山学院はミッションスクールですから、当局の風当たりも相当強かったようです。そして、母の兄が青山学院神学部にいたせいもあり、また戦争を批判してはばからなかったので特高警察が母宅を監視する日もあったと聞きます。焼夷弾が家を直撃し、屋根瓦を貫通して玄関に落下しましたが、懸命の消火で家は残りました。

終戦

戦争が終わると、街には家や家族を失った人々があふれます。恵比寿駅界隈にはそういった人達が多くバラックを建てて住みはじめました。その名残はごく最近までありました。そういう意味では、代官山や青葉台、そして南平台は静かな住宅地のままでしたが、谷間にあたる恵比寿周辺はなんとなく雑然とした街でした。

私がちいさい頃の代官山

母の実家が代官山ということもあって、私は近所の日赤病院で生まれました。家族に連れられてしばしば代官山の祖母宅をたずねます。1960年頃の東横線代官山駅は構造は今とほとんど同じですが、駅前が「しん」と静かで、裸電球の電灯がぽつんとひとつだけあり、石畳に母のハイヒールのこつこついう音だけが響いていたのを鮮明に覚えています。人なんか誰も歩いていません。

八幡通りを渡ると、正面に細い路地があります。今でもあります。そこをはいって2分ほどゆくとT字路に突き当たります。その、突き当たった正面が当時の私の祖母の家があったところです。渋谷という街は、とても静かで落ち着いたところです。今でもその面影は至るところにあります。そのT字路を右にゆくと、正面に駄菓子屋があって、地元では「がっちゃんや」と呼ばれていました。祖母の家に泊った日は、フーセンやらメンコを買いに、あるいは見に行ったものです。すぐそばには、喜劇俳優の南利明さんのお宅がありました。町並みに溶け込んだ地味なお宅でした。

ここから猿楽小学校(母の母校です)の方に行くと、猿楽小学校わきにくねくねと階段状に曲がりくねった路地がります。地元ではこれを「七曲がり」と呼びます。今でも、このあたりを散歩すると、つい、七曲がりを通ってしまいます。七曲がりを出ると銭湯があります。私の弟などは、その銭湯が遊び場になったことがあり・・・つまり、放課後に小学生達がぞろぞろと銭湯にやってきては水遊びをして騒ぐわけです・・・学校から「銭湯遊び」を禁止されたなんていう事件もありました。

このあたりは、徳川さんの屋敷があり、邸内には使用人の住宅もありました。ノースウェスト航空の社宅も歴史があります。このあたりではおしゃれな住宅の代表格だったようです。その先の南平台というあたりは、古くからの高級住宅地で、三木邸や美濃部邸があります。子供ごころに、代官山よりも南平台の方がワンランク上という印象がありました。

その先が松涛地区です。松涛小学校は、戦前、始業時刻が9時であったことがあるそうです。何故ならば、子供達のおかあさんの多くが円山町で夜に働いていたため、朝早く起きられないことへの配慮だったのです。道玄坂の百軒店商店街も大変賑わっていて、ジャズ喫茶もたくさんありましたが、今はすっかりさびれてしまいました。

しばらくの間、私も代官山に住んだことがあります。母は、サンダルをつっかけて、買い物かごを提げて渋谷の東横デパートまで買い物にゆきました。渋谷というのはとても庶民的な街なのです。当時、紀文というところの「はんぺん」がとてもおいしいと評判になり、東横デパートにしか売っていなくて、良くおつかいに行かされたものです。紀文も今や大企業になってしまいした。母は今でも、紀文のことを「はんぺんや」といいます。

恵比寿

恵比寿という街は、代官山とは全く雰囲気の異なる場所でした。代官山が住宅の街ならば、恵比寿は商業と実用の街です。代官山にはお店などというものはなく・・・代官山駅の周囲にはパン屋(今はありません)と蕎麦屋(今も健在です)が一軒ずつしかなかった・・・買物といえば、恵比寿か渋谷に出るしかなかったのです。

その恵比寿駅前の地下には、杉の木屋という当時としては画期的なスーパーマーケットの草分けがありました。私は鉢山中学に通っていたのですが、遠足のおやつ(350円まで)を買うのに、友達と連れ立ってわざわざ恵比寿駅前の杉の木屋まで行ったものです。今でも杉の木屋は健在ですし、その上にある路地のような商店街は、付近のサラリーマンやOL達の重要なお昼のお弁当の調達場所になっています。

中学・高校の頃

1964年に東京でオリンピックが開催されました。その時出来たのが、広大なオリンピック選手村(今の代々木公園)とオリンピック・プールです。私は、夏になると友達といっしょに何度も代々木のオリンピック・プールに遊びに行ったものです。

高田馬場の都立高校にはいったころ、友達にどこに住んでいるのかと聞かれて、代官山と答えるのがはずかしかったという記憶があります。「代官山?それどこにあるんだい?」「渋谷と中目黒の間だよ。」「ああ、そういえば一つ駅があったな。なんで、そんな田舎に住んでいるんだよ。」といった調子です。

自由が丘の方がずっとおしゃれで、代官山に住んでいた私は、わざわざ自由が丘まで出かけていたくらいです。もっとも、自由が丘の先、多摩川のむこう側はもうカンペキな田舎でありましたが。

いつのまにか

1970年後半頃からでしょうか。代官山が、おしゃれな街として徐々に話題になりはじめました。もう、その頃には私はそこには住んでいませんでしたし、祖母も引退して自分で浜松の終身看護の施設に行ってしまいましたから、代官山を訪れるチャンスもなくなってしまいました。

最近、職場が恵比寿に移ったので、代官山界隈を散歩する機会を持てるようになりました。母の実家のあった場所、ヒルサイドテラスの真ん前、を通るたびに何故か胸が痛くなります。やはり、思い出のいっぱい詰まったこのあたりが好きなのです。きっと。


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