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1999.5.2
車のドライバーには2種類の人種がいるそうです。その一方が「ボンネットを開けたことがない人達」で、残りの一方が「用もないのに矢鱈とボンネットを開けたがる人達」です。世の中、ディーラーに任せておけば、オイル交換からブレーキパッドのメンテナンス、何でも面倒みてくれますから、前者の人種が困るようなことは滅多にありません。突然の問題が生じても、保険屋やらJAFやらがやってきてどうにかしてくれます。では、後者の場合はどうでしょうか。タイヤ圧計やら空気ポンプやらを買い込んで自分でメンテナンスしたり、ワイパーブレードを自分で交換したりしはじめます。スピーカやバッテリー交換も自分でやるようになり、やがてはウマなんぞを買い込んできて、サスペンションまでいじりはじめるかもしれません。

どんなに車にのめり込んでしまっても、車を一から自分で設計し、組み立てるには相当の設備と経験がいります。なんといっても、安全基準を満足できるような車を自作し、公道を走るなんていうことは不可能に近い業です。それをやってしまったのがミツオカ自動車なのかもしれませんが。

一方で、オーディオアンプには、安全基準も車検もありませんし、1日〜2日で組み立てられるキットなんていうお手軽なものまであります。ガレージもいらず、畳1枚のスペースさえあれば十分です。ですから、大いにオーディオアンプの自作を楽しんだらいいと思います。そのとき、あまりメーカー品や高級アンプを意識しすぎないことです。よく、自作したように見えないように、いかにも高級なメーカー品みたいに仕上げようとした自作アンプをみかけますが、私はそういう趣味に合いません。自作アンプはもっと自作アンプらしくあって欲しいと思うのです。

もし、あなたが自分で車を作ったとして、それがメルセデス・ベンツのSシリーズとそっくりだったら、ばかみたいじゃありませんか。誰もがうらやましがるような素敵な自作自動車があるとしたら、それはもっと別の次元のデザインであり、コンセプトだと思います。そして、必ずしも高級車ではないと思います。何故なら、「高級さ」ではなく「遊び心」にこそ自作の楽しみがあると思うからです。高級品が欲しかったら、お金を積んでメーカー品をお買いになればよろしい。


1998.8.3/1999.1.6
オーディオの趣味にのめり込んでしまうと、お金の使い方に悩むことが多くなります。一部のお金持ちの皆さんを除いて、我々の多くは欲しいオーディオ機器を手に入れようとすると、お財布との相談がまとまらないことが多いのです。

そういう時はどうするか・・・まず、オペラの切符でも手に入れてしまいましょう。それから、お気に入りのレストランを予約します。おしゃれなジャケットを新調するというのもいいと思います。ついでに、リゾートホテルなんかも予約してしまいましょう。そうそう、部屋の壁紙を全部張り替えてしまいます。ローズやオリーブの鉢とすてきな靴を奥様(または彼女)にプレゼントすることも忘れずに。大倉の洋食器、ジノリの大皿にケーキ皿、清水焼の小皿に四君子柄の湯呑み、クニエダヤスエさんの箸置き。シャトー・プピーユにクレマン・ド・リムー、たまにはモンラッシェのグラン・クリュ。さて、ここまでやって、まだお金が余っていたら・・・CDを20枚ほど仕入れてきましょうか。・・・いえいえ、うまい寿司を食いに出かけたほうがみんな喜びます。

こういうことを繰り返して私の15年が経ちました。思い起こせば、この15年というもの、オーディオ機器は何ひとつ買い換えていないのです。びっくりするような設備ではありませんし、こんな粗末なシステム、雑誌の記事にもならないでしょう。オーディオにかけるお金が、毎年のように総支出の5%を越えるようであれば、危険信号です。あなたは、オーディオを趣味としたことによって、本来得られたはずのさまざまな楽しみを逃しています。


1997.6.14
ちょっと考えて欲しいことがあります。それは、真空管アンプが消費する電力のことです。今日、私たちが使っている電力の大半は火力発電と原子力発電に頼っています。原子力発電の将来の見込みはあまり明るくありませんから、今後も火力発電の重要性が変わることがありません。ご存知のように、我が国のCO2規制は惨澹たるありさまです。こういう社会にあっては、音が良くなるかもしれないから、という理由で大量の電力をバカスカ消費するようなアンプを製作するのは、どこか感受性に欠けているような気がします。

たとえば、真空管アンプのB電源(300V)に3mA余計に電流を流したとします。ここで消費される電力1日(24時間)分は、単3のニッカド電池1本をフル充電できる電力量に相当します。今日の家庭用電気機器のほとんどは、電源スイッチをOFFにしていても完全にOFFにはならずに、少しずつ電力を消費しているものが大半を占めます。テレビ、ビデオデッキ、電話機、FAX、電子レンジ、炊飯器・・・みんなそうです。アンプを自作される方であれば、そんなことは先刻承知のはずです。

だからといって、すべて電力を消費するものをあきらめよ、アンプ自作の趣味はご法度である、というのも悲しいはなしです。しかし、すくなくとも、アンプの電源をONにしたら、部屋のクーラーをフル回転させなくてはならないようなアンプだけは、やめてほしいものです。このホームページでご紹介しているアンプは、全消費電力を100W未満に抑えることを念頭に入れて設計されています。そういうことに気づいていただけたらうれしいです。


1997.4.22
「○○王国」という本を買ってきた。そこで紹介されている真空管アンプの価格のいかに高いことか、愕然の思いである。巨大なトランス、豪華な削出し部品、まさに絢爛豪華な豪邸がごとき様相である。ぺなぺなのアルミ折曲げシャーシよりも、削出しの重量級シャーシの方が音に良いのだ、と言われて反論するつもりはない。ふんだんに投入された物量に対抗するつもりもない。要は、趣味の問題であり、価値観の違いである。廉価に味わえるプロの洋食やの職人技、店の清潔さ、たたずまいに類するものがオーディオにもあって欲しいと思う今日このごろである。高級オーディオを虚飾とまでは言うまい、しかし、技術やとしての誇りがにじみ出るようなアンプに出会いたいものである。

1997.1.30
大阪出張の新幹線の車内から、雪の積もった関ヶ原を眺めながら、ふと、ステレオ・アンプというのは二世帯住宅のようなものだなあと思った。同じ間取りの二つの家がひとつ建屋なっているあれである。二軒が接しているからといって、隣の家の物音が聞こえては住み心地が悪い。隣の家で少々の衝撃音があっても気にならないようでなければならない。しかし、外見にも二軒が調和していた方が具合がいいし、壁の塗り替えや設備の一新は揃って実施したいところである。しかし、そのような二世帯住宅はなかなか実現できないというのもまた事実である。ステレオ・アンプもまた同じ。

住宅というものは、その家だけが立派であってもそれでほんとうに住み心地がいいかというとそうではない。駅から家までの道のりには快適な歩道がついているだろうか、上水道の水質はいいだろうか、近所に騒音や悪臭を発するような困ったものはないだろうか、自分たちだけ違和感をもって近所の中で浮いてはいないだろうか・・・等々。ステレオ・アンプもまた同じである。

日本の住宅を見ていると、個々の家々はそれなりに工夫されているのに、街並みときたらちぐはぐをきわめ、住環境はもっとひどかったりする。家の中は自己満足の塊で、粗大ごみは街角にほったらかし。高級ブランドのバッグをとっかえひっかえしてみたところで、どこか貧しさが漂う。ステレオ・アンプもまた同じである。


1997.1.22b
ピアノ・ロールというのをご存じだろうか。誰かが弾いたピアノの演奏を、紙のロールに穴を穿って記録する。それを実際のピアノを使って再生し、演奏者本人がタイミングのずれやタッチの違いを指摘し、職人が手作業で丁寧に修正してゆく。この作業を何度も何度も繰り返してようやくピアノ・ロールのオリジナルが出来上がる。完成すると、演奏者自身がその証明としてオリジナルのロールにサインする。これが原本となって、コピーが複数作成され、さまざまな人の手にわたってゆくのだ。

先日、作曲者であるグスタフ・マーラー本人が弾いた交響曲第5番第1楽章のピアノ・ロール版を聴いた。鼓動が高まり、足がすくんだ。いだいていた想像を覆すようなすさまじい迫力と、緊張感と、ダイナミクスだった。音楽を記録し、時間と場所を超えたところで再生するというテーマに、これほど見事に応えた媒体をはじめて知った。そして、電気に依存した音楽の記録方法に限界というものがあるかもしれないと、ふと思った。


1997.1.22a
消えつつあるものは、真空管やレコードだけではないことに気がついた。レコードが消えるということは、RIAAイコライザの技術も消えるということを意味するのだ。MC入力やMM入力がなくなって、アンプというアンプはライン・レベルの入力だけになってゆくから、ミリ・ボルトあるいは数十マイクロ・ボルトのオーダーの入力を扱う技術も必要なくなってゆく。RIAAイコライザ回路の実にさまざまなヴァリエーションは、真空管のそれよりももっと速いペースでこの世から消えてしまうのではないだろうか。実に、今、市中で売られているアンプのほとんどすべてが、もはやレコードに刻まれた音をカートリッジから直接再生する能力を失っている。

1996.11
1990年代にはいって、いよいよ市場の真空管在庫の底が見えてきた。71A、45、50、PX4、PX25といった希少古典管がすっかり姿を消しただけでなく、6R-A8、6G-A4といった国産近代管も最早在庫大量放出の期待は絶望に近い。雑誌を見ても、6EM7、6CK4のような代用管(テレビ管のオーディオ回路への代用)記事が目立ち、米の代用食に頼った大戦末期の日本国内経済事情を見る感がある(注:私は戦後生まれです)。本来、在庫が豊富であったはずの6F6、6V6、6L6関係の価格も確実に上昇してきている。

生産活動の復活という明るい話題の一方で、これまで生産された残り少ない遺産は確実に食い潰されている。真空管を増幅素子として実用に供することができるのも、そう長くはないかもしれない。真空管の供給水準が一定のレベルを割れば、出力トランス、真空管ソケット、高耐圧コンデンサ等の周辺部品の生産および供給にブレーキがかかることは容易に想像できる。そうなれば、真空管の増幅素子としての生命は断たれることになる。いずれにせよ、真空管は「最後の実用時代」の幕を閉じ「博物館の時代」に移ろうとしている。

消えかけた真空管の灯火に最後の命を吹き込み、消えゆく運命にある真空管アンプの持つ高い音楽性を享受し、そして、なによりも真空管の灯を少しでも永く灯し続けることを願って本ページを綴ることにした。


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