私のアンプ設計マニュアル / 雑学編 良い音のアンプやオーディオシステムを実現するには 2017.2.5 |
良い音は測定できない、でも測定しなければならない
困ったことに、音のよしあしは物理的に測定できません。特に、人の心が良いと感じる音、心地よいと感じる音を物理的に測定・把握する方法はありません。いいかえると、物理的に把握できる測定方法では音のよしあしはわからないということであり、物理的に優れた特性数値を得るというアプローチでは良い音に近づくことはできないとも言うことができます。たしかに、良い音のオーディオ機器の物理特性はおしなべて優秀であり、広帯域でフラットネスを得ており低歪みです。しかし、広帯域でフラットネスが得られていてきわめて低歪みなのにダメな音、聞いていて何も伝わってこない音のオーディオ機器もたくさんあります。逆は真ではありません。優れた物理特性=良い音ということは誰も約束してくれません。
では、物理特性を無視してひたすら感覚をたよりにして設計したらいいのかというとそういうわけではありません。ある時「スピーカーは楽器である。物理特性を云々すべきではなく、感性で作るべきだ」という方が試作した素晴らしいスピーカーがあるので一度聞いてみないか」と言われて我が家に過去運び込まれてきました。このスピーカーの音を聞くなり感動し絶賛してすぐに注文する人もいたんだとか。聞いてみると今まで聞いたどのスピーカーにもない特徴的な音でした。
楽器のようでもあり、変な音だとも言えます。楽器の種類や音程によっては強烈に鼻が詰まったようにも聞こえます。また、音が歪っぽいようにも感じます。わけがわからない強烈な音であり、違和感も普通ではありませんでした。そこでそのスピーカーの周波数特性を測定してみたところ、右図のような結果を得ました。なんと1kHzと1.3kHzに+20dBものピークがあり、ピークとディップの開きは34dBにも及んでいたのです。
おそらく、ある特定の音楽ソースを聞くと強烈なインパクトがあってそれで「すごい!」と思ってしまうことが何度か起きたのでしょう。しかし、私の耳では「なんじゃこりゃ」ということになったというわけです。
この事件は、人の感性においても大きな誤りが起こりうるということを教えてくれました。特に、思入れが強い設計者・製作者本人の感覚というのはあてにならない可能性が高いということです。人は自分にとって都合が良い結果を期待するがあまり、事実がどうであるかが見えなくなるものです。
もうひとつの事例です。本サイトで取り組んでいる「旅行オーディオプロジェクト」で起きたことをご紹介しましょう。このプロジェクトでは、旅先のホテルなどでも良い音で音楽を楽しみたいという願いを実現するために、コンパクトで音の良いアンプやスピーカーを取り上げています。
アンプの問題は容易に解決したのですが問題はスピーカーでした。スピーカーは小さくすればするほど低音再生能力が著しく低下します。しかし、旅行に持って行くにはかさばるスピーカーでは困ります。いろいろ探しているうちにDENONのSC-A7L2というかなりしっかりとした作りの三角形をした2wayスピカーをみつけました。見た目は完璧といっていいくらい良さげな雰囲気(右の画像)。
早速購入して聞いてみたところ、小さいなりに帯域は広いようですが音が平板で引っ込んだ感じすらします。何かが抜けたような音なのです。たまたま来日していたウィーンフィルの団員にも聞いてもらおうと思って、滞在中のホテルにアンプとセットで届けておいたところ、翌日になって残念そうな声で「あれはダメだよ。音楽になっていない」という返事がきました。
DENONといえばスピーカーにおいては実績豊富な日本を代表するブランドですし、このスピーカーはじつに丁寧に製造されていて高域に至っては90kHzというスーパー広帯域で気合が入っています。小型なりに間違いなく物理特性を追い込んだ設計開発がなされたはずですし、製品として販売OKの判断がなされたはずなのに、演奏家からはダメ出しされてしまったというわけです。
何故、こんな悲喜劇が起きてしまうのでしょうか。
豊かな音楽経験と美的感受性
良い音を出す、良い音のするアンプやオーディオシステムを作るために必要で最も重要なことは、先に結論を申し上げると「豊かな音楽経験」を積むことと「美的感受性」を磨くことです。豊かな音楽経験とは、音楽や演奏家に接する機会を多く持ち、できれば楽曲や楽器についてもさまざまな知識を得ることです。コンサート大ホール、室内楽ホール、ライブハウス、一般家庭のホームコンサートなどいろいろな条件で音楽を聞くことによって、幅広い音楽経験を得ることができます。海外旅行をしたら、その国でしか聞けない音が聞けますし、博物館に行けばさまざまな珍しい楽器を見ることができます。
美的感受性とは、音楽経験のさらに奥にある大切な何かを感じる能力のことです。目で見てはっとするような美しいデザインに対する感性であり、また、音楽を聴いていてある瞬間に体がゾクゾクッとしたり不本意にも涙が出てしまったりするあの独特の感じに対する研ぎ澄まされた感性のことです。そして、どこを見ても冬景色の2月下旬、道端に小さく咲くオオイヌノフグリの青い輝きを見て、春がまだまだ遠いながらも山の向こうまで来ていることを感じてわくわくするような季節や自然の移り変わりに対する感性をも含みます。
私達は、目で見た形、音、肌で感じる感触、味覚、香りといった五感だけでなく、文書や体験したできごとに対しても感動や美しさを見出すことができます。そういう意味では、美的感受性は人間そのものが備えた感性の総合力だともいえます。そして、良い音を出す、良い音のするアンプやオーディオシステムを作るためには何よりもこの美的感受性が必要なのだと言いたいのです。
こんなことを書くと、何もそんな大げさに考えなくてもいいではないか、音は音として良いものを追求すればいいではないか、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが私はそうは思いません。また、このページを開く時、そこに具体的な良い音のアンプを作るための近道が書いてあることを期待されて、実はここにはそんなことはほとんど書かれていないことに落胆された方は、そもそも最初から私のホームページを開いたことは間違っていたかもしれない思った方が正解かもしれません。
私は、豊かな音楽経験と美的感受性に対する総合力を磨くことがないと、良い音のアンプやオーディオシステムなど絶対に作れないと心から思っています。
技術と情熱と
私が学生の頃に共に音楽に親しみかつ音楽を指導してくださったHさんという方がいます。Hさんはいつも「心だけでは良い音楽はできないし、技術だけでも良い音楽はできない」とおっしゃっていました。へたくそであることを棚上げして音楽論に熱中しているアマチュア演奏家達に向かって「情緒に流れるな」、「言い訳しないでやっぱり腕も磨け」と言いたかったのでしょう。この考え方はアマチュアのものづくりにもあてはまります。「自分で作ることに意味がある」とか「作ることの喜び」という次元では、真に音の良いアンプやオーディオシステムはできません。「技術がなければ駄目」だということに疑いはないと思います。私がホームページや本で、ロードラインや負帰還の基本的理解のための説明に力を入れているのは、これがわかっていなかったら本当に「自分で作ることに意味がある」や「作ることの喜び」だけで終わってしまうと思うからです。言いかえると、ロードラインや負帰還といった基礎的な技術をしっかりマスターしてしまえば、アマチュアとしてかなりのところまで行ける、場合によっては怪しげな雑誌の製作記事を書いているライターの1人や2人はゆうに追い越せるということです。但し、私がそうだというわけではありません。私はものごとをわかりやすく人に伝えることは得意ですが、だからといって私が優秀な技術者であるかというとそれは別の問題です。ロードラインや負帰還の次に重要なのは、アースに関する基本的理解と部品に関する知識だと思います。
では、こういった理解や知識がどんな風に役に立つのでしょうか。ロードラインや負帰還やアースや部品の理解を深めることによって、良い音を出すためのヒントが得られるのでしょうか。
残念ながらそういった期待はしない方がいいでしょう。雑誌の製作記事を見ると「太い音にしたかったのでプレート電流を多めに流した」とか「音に躍動感を与えるために負帰還をかけなかった」といった記述に溢れています。世の中どちらかというとそういったアプローチの方が目立ちますが、ロードラインについてしっかり理解できているならば「プレート電流を増やしたから音が太くなる」なんていう話を鵜呑みにすることはなくなりますし、「負帰還をかけると音が悪くなるから無帰還でないと駄目」なんている電源スイッチのON/OFFみたいな発想に毒されなくて済むようになれます。自己流のアース配線のせいでハムに泣くことがなくなるだけでなく、雑誌の製作記事のアース配線の不備を発見できるようになり、一発でハムのない静粛なアンプが作れるようになります。高価なビンテージ部品に眩惑されなくなり、ジャンク屋の店頭やオークションに出ている部品の目利きができるようになります。
このようなことができるようになってはじめて、真に音の良いアンプやオーディオシステムへの入り口近づくことができるのだと思いますがいかがでしょうか。
1個6万円もする出力トランスにベルマークの300Bを投入したにもかかわらずアース配線がでたらめなアンプと、ペアで3000円のEHのEL34と手ごろな価格の出力トランスFE-25-8を使った静粛かつ安定に動作するアンプと、一体どちらが上等かというと、もしかしたら前者の方が価格的には上等かもしれません。しかし、前者のアンプを作った人と、後者のアンプを作った人を比べたら、アンプ製作者としては後者の方が上等であることに異論はないでしょう。
良い音の自己形成
冒頭で述べた豊かな音楽経験と美的感受性を養うことの重要さは、その人その人における「良い音とは何か」ということに関する自己形成につながります。自己の中に良い音とはどんなものであるかが形成されていないと、常に迷いが生じるようになります。良い音がわかるようになるためには、最高のオーディオシステムの音を聞いてもダメです。そういうことをやっても、単に模倣と比較の世界しか得られません。良い音がわかる耳を持ちたかったら、食わず嫌いをしないで特定のジャンルに偏らないで、いろいろな音楽をいろいろな環境で聞くことをおすすめします。何故なら、基準となるすべてを包含した唯一で最高の音は存在しないからです。もちろん、どんな音楽を聞くのか聞かないのかはその人の自由ですが、良い音がわかるようになりたいのであったら特定の音楽だけを追いかけるのは良い方法ではありません。
音楽を聞く環境も幅広い方が良いです。2,000人〜3,000人規模のコンサートホール、コンサートホールとは異なる響きのオペラハウス、1,000人以下の中小のホール、Blue Note Tokyoのようなゴージャスなライブハウス、数十人がひしめき合って聞く小さなライブハウス、数十人から二百人程度のサロン、数千人から数万人を収容したライブのアリーナ・・・等々。どんな場所でもそれぞれにいいところや欠点があり、音の鳴り方も違います。そうしたさまざまな音を聞くうちに、何がいい音なのかだんだん見えてきて、それが自分のものさしになってきます。
オーディオの世界では、電源ケーブルを変えても、出力管を変えても、コンデンサ1個変えても音は変化します。このような音の変化は常に私達を悩まし続けてきました。しかし、良い音が自己形成できている人は、そういった変化に会っても迷いが生じることはありません。逆にいうと、いろいろといじって音が変わるたびに一喜一憂している人は良い音に関する自己形成ができていないのだと思います。変化が起きるたびにあっちに行ったりこっちに行ったりしてとても忙しそうです。時々、それこそが楽しいのだという人がいますが、私はその種の人とは会話ができないので距離を置くことにしています。
求める音に迷いがなくなってくると徐々にではありますが「比較試聴」ということをする必要がなくなってくることに気づくと思います。今、目の前にあるたった1つのアンプやスピーカーから求める音が出たならば、他と比較する必要などないからです。但し、比較することが目的化している場合は別です・・・野暮なことを言うつもりはありません。2つを比較するということは、いいかえると2つともに求める音ではない、目標まで到達していないことを意味します。幸いなことに、私はすでに求める音が明確にイメージできていますので、オーディオ機材を購入する時は比較試聴らしきことはまずやりません。出合った時が決断の時、という感じです。アンプの製作も同じで、出来上がったアンプの音が求める音と違っていたり、いろいろ工夫してもどうにかなる見込みがないことがはっきりしてくると、以後、そのアンプを鳴らすことはなくなります。解体するかしまったままにするかのどちらかです。稀に、「もしかして」と思って引っ張り出して聞いてみることもありますが、ほぼ確実に「やっぱり駄目か」で終わります。従って、我が家には異なるアンプを切り替えて試聴できるようなA/B切り替えスイッチのようなしかけはありません。
面白いことに、その道の達人たちが作るアンプは、その回路方式や使用デバイスがどうであろうと関係なく、その人ごとにある一定の音の傾向があります。きっと、その音が指し示す方向がその人の中で形成された求める音なのだと思います。
もう少し具体的な話
良い音を手に入れるためのもう少し具体的な話をしましょう。先日、秋葉原の真空管屋の店頭で店番のおじさんに(例の飴とか干芋とかくれるおじさんです)「EL34はSOVTEKとJJとどっちが音がいいですか」と聞いているお客さんがいました。「そんな質問するなよ」と言いたいのを我慢して黙って聞いていると、おじさんは「それは、人それぞれだからねえ」と答えます。「どう違うんですか」という質問がくると「こっちの方がしっかり作られてるね、だから値段も少し高い」と答えました。まことに適切な回答であると思われます。お客の方はじっと考え込んでしまいましたが、これはそんな質問をした方が悪いんですね。レストランに行って、メニューを決める時に「ロースとフィレとどっちがおいしいですか」って聞くのと変わりませんから。良い音を手に入れたかったら、自分で決めろ、というのが私の考えです。
どの世界にも通説とか既成概念というものがあります。通説とか既成概念というものは、言いだしっぺは大概特定の誰か1人ですが、宣伝が非常にうまかったり、政府が後押ししていたり、周囲が「そうだ、そうだ」と言うようになり、やがて本や雑誌上にそのことが繰り返し書かれたりしてゆくうちに社会全体に浸透してゆきます。通説が多いのは健康の話題とこだわり系の趣味の世界です。私が子供の頃は、夏の暑い日に運動してへばった時、ほとんどすべての大人が「水を飲んではいけない」と言ったもんです。今ではそんな阿呆なことを言う人はごく少数になりましたね。「真空管はあたたかい音がする」、「2次歪みは耳に心地良いが、3次歪みは耳障り」。何をいい加減なことを言っているのだ、といいたい。
良い音を手に入れるための次なるステップは、通説や既成概念を払拭することからスタートします。これができない人は、いつまで経っても目の前の壁を越えることはできません。ブックシェルフ・スピーカーは本棚に詰め込むべし、と思っている人は、そう信じている限り豊かな低域を手に入れることはありません。本棚から出して、前後左右に空間を与えることなど考えもしないでしょう。人や世間の言うことに振り回されないで、自分の行動が人と違うことを恐れないでいろいろやってみるということです。
真に自分が求める音を手に入れるためには、最終的には自分の感性を信じるしかありません。但し、基盤ができていないで独走すると判断を誤り、変な音で満足してしまうことになります。だからこそ、自ら確信を持って行動できるようになるために、幅広い音楽経験を積み美的感受性に磨きをかけておく必要があるのです。
技術思考・論理思考の危うさ
人の考えは常に浅く狭い視野であるということを知らねばなりません。「こうだから、こうなるはずだ」という論理思考はその時は正しいと思えても、そのほとんどすべてが後になって間違っていることが明らかになるものです。あのホーキング博士もブラックホールについて長い議論の末2007年に自説が誤りであること認めましたね。私たちの浅知恵について言えば、正しいことの方が奇跡かもしれません。技術的・論理的に組み立てた仮説は、数学や物理の世界はさておき、人間の感覚や感情、思考、社会科学などの世界においてはきわめていい加減で信憑性が低いものです。1つ例を挙げてみましょう。「増幅段数は少ない方が音が良くなる」というのはどうでしょう。「増幅段数が増えてしまったら、音はどんどん悪くなる。音の鮮度は失われる。いいことなんかない」という説明はとてもわかりやすいですね。では、試みにこれに反する仮説を立ててみましょう。「音は、増幅段数を経ても悪くなんかならない」。
厳密に言えば、アナログ回路の場合、増幅段を1つ通れば必ず歪みが生じますし、ノイズも付加されます。しかし、そのことが原因となって生じる音の劣化は大したことはない、という仮説です。この仮説に立つと、3段アンプあるいはそれ以上の段数のアンプは段数が多いからといって必ずしも単段アンプよりも音が悪いとは言えないことになります。CDプレーヤーとパワーアンプの間にラインアンプを入れたからといって不利な条件になるとは限らない、という可能性が出てきます。どちらが正しいかということを言っているのではありません。
もう1つ例を挙げてみます。「良いアンプは部品の違いが音に出る」というやつです。いかにもわかりやすく、説得力がありそうです。しかし、この論理に異を唱える人は非常に多いという現実も存在します。この論理をつきつめてゆくと「良いアンプを作るには部品を厳選しなければならない」にはじまって最終的には音が良いと言われている高級部品ばかりで固めたものになったり、製造中止になった特定の部品を追い求めてYahooオークションが賑わう結果になります。また、部品を入れ替えても音が変化しないアンプは「良くないアンプ」ということにされてしまうかもしれません。
逆の論理を掲げたらどうなるでしょうか。「良いアンプは部品の違いの影響なんか受けない」とか「部品によって音がころころ変わるアンプは出来が悪い」というところからスタートするものです。この論理をつきつめてゆくと「部品の影響を受けにくい回路上の工夫」がなされることになり、「良い音を出すための鍵を握るのは部品ではなくもっと別のところにある」となってゆきます。両者相譲らずいつまでも終わることのない議論が続くことでしょう。どちらが正しいかという問題ではないからです。
私はかつては前者の考え方に傾倒し、この15年くらいは後者の考え方をするようになりました。しかし、そんなことはどうでも良くて、今ここで申し上げたいのは、論理の積み上げはとっても危うく脆いものであるということです。論理というのは、スタートラインが違えばどうにでもなっていってしまうものだ、そして同じ人でも置かれた環境や経験や周囲からの影響によっていかようにもなっていく、ということです。
「こうだから、こうなる」とか「だからこうなるはずだ」という論理の展開は多くの場合、賢人がこれを行うと真理をみつけてしまうのですが、我々凡人の場合はほとんどのケースでやがて偏った袋小路に迷い込みます。特に趣味のオーディオの世界ではこの袋小路に迷い込んでしまいやすい気がします。信じて、信じて、信じて、どんどん行ってしまう。ある種の○○原理主義になってゆくんでしょうね。まあ、好きでやっているんだからほっといてくれ、というのが本音だと思いますので、これ以上言いませんが、私はかくのごとく思っています。
論理ベースの議論に付き合うな
話は横道にそれますが、よくインターネットの掲示板などで議論をふっかけてくる人がいます。掲示板に書かれたことについて「根拠を示せ」とか「説明しろ」みたいなことを言ったり、1対1の論戦を挑んでくる人です。論理ベースの議論はどの言い分も筋が通っているものです。しかし、すでに述べたように、筋が通っていても論理そのものが危ういものであり、かつ、互いの論理の出発点が異なっていますから、いくら議論を重ねても出口はありません。論理の連鎖をうまくつなげることができなくなった側がみかけ上の負けになるだけです。だからといって、論理をうまくつないだ側の言い分が正しいかというとそんなことはありません。通常、勝つための議論はこういう卑しく馬鹿げた構造の上で展開されます。だから、後味が悪いのです。本来、論理ベースの議論というのは真実を追究するための一方法として古くから知られています。しかし、それが機能するのはごく少数の賢人達だけであって、我々凡人が行う論理ベースの議論では、論者は意思的あるいは無意識的に隠されたゴールというものを持って議論に臨んでいます。議論をふっかけてくる相手は、最初から結論を決めて相手を論破することを目的としていますから、こんなのに付き合うのは全く人生の無駄です。結論を決めた相手とする議論くらい低劣で不快なものはありません。だから、私はそのような空気を感じると誰が何と言おうと相手にしません。しかし、こういう手合いを無視すると、外野は「逃げるのか、卑怯だぞ」とけしかけますし、相手もしきりと挑発して最終的には捨て台詞か勝手な勝利宣言をするようですが、それでも無視して相手にしないのが賢者の選択だと思っています。
テクニカルな落とし穴
そこで今一度、美的感受性は総合力、というテーマに戻って考えてみます。美的感受性は、技術力でも論理でもなく、それらを超えたところに存在します。そして、「何故、良い音と感じたのか」とか「何故、美しいと思ったのか」といった問いに対しては答えは必要ありません。「周波数特性がDCから200kHzまでフラットだから」とか「ダンピングファクタは100がベスト」とか「歪率は0.01%以下なら関係ない」とか、そういう数値的な答えを求めるのはナンセンスだということは、みなさんも十分すぎるほどにわかっていると思います。あせってそこにテクニカルな理由を見つけようとすると、ちいさなテクニカルな落とし穴にはまります。周波数特性がDCから200kHzまでフラットのアンプの音が、10Hz〜50kHzの帯域のアンプよりも悪かったらどうしますか。非常に良い音がする2台のアンプのダンピングファクタを測ったら1台は10でもう1台は200だったとしましょう。100のアンプの位置づけはどうしますか。歪率が0.1%のアンプの音がすっきりと雑味がなくて、歪率0.005%のアンプの音がざらついた感じがしたらどう説明しますか。こういうことは普通に起きています。
「どうしたらもっと良い音になるでしょうか」、「出力管のロードラインや動作条件はこれでいいでしょうか」、「負荷インピーダンスを2.5kΩから3.5kΩに変えたら音はどうなるでしょうか」、「あなたはどこの何という線材使っていますか」、「このアンプの場合、スピーカーは別のに変えた方がいいでしょうか」・・・・等々。私はこういった質問には期待どおりに答えられたことがありません。1つめの質問に対しては「わかりません」と言いますし、2つめの質問に対しては「ちゃんと動作していると思いますよ」あるいは「それだと定格オーバーなので云々」という風に答えます。3つめの質問に対しては「2.5kΩでも3.5kΩでも変わるといえば変わるし、変わらないといえば変わらない」と答えます。4つめの質問に対しては「普通に売っている安いのです」と答え、最後の質問に対しては「自分で考えてください、私の知ったことではありません」と答えます。
アンプを自作していると、どうしても音が良くなることと技術的・数値的にどうであるかということの間に安直に関連性を求めたくなります。その方が話が簡単になり、何をしたらいいか単純化されるからです。
数字を追いかけることが必ずしも間違いとは言えません。音のよしあしに関係する数字があるとしましょう。おそらくその数字の種類は非常に多く、それらが相互に複雑に絡み合っています。その関係性を理解しないで特定の数字を追いかけてもダメだということです。さらに、電子回路の世界にも「あちらを立てればこちらが立たず」な関係が至るところにあります。ある数字を最適化すると、別の数字は最適化されなくなるわけです。
さらに、私たちは音に関係のあるすべての要素を把握できているわけではありません。未知の要素、未知の数字が存在します。そのことについては教科書には書いてありませんし、雑誌の記事を見ても見つからないでしょう。
メンタルな落とし穴
東京の某所にちょっと変わったスピーカーを作っている工房があります。その世界ではちょっと知れたスピーカーのようで、有名なライブハウスのBGM用でも見かけたことがあります。私はそのスピーカーの音がどうにも奇異に聞こえて好きになれません。ある時、業界関係者に「ちょっと面白い場所がある」と言って誘われて立ち寄った先がなんとその工房でした。広大な作業スペースのあちこちに試作品と思われるエンクロージャがあり、試聴コーナーもありました。音への情熱とか一生懸命さはたくさん伝わってくるのですが、「なんか、道を間違えてない?」というのがわたしの最初の印象でした。そこで鳴っていたのは例の鼻が詰まったような音で、どれをとっても同じ傾向の(私に言わせると変な)音が鳴っています。しかし、それが売れるところには売れるわけですし、ここにやってきて耳を傾けて一心に聴いている人もいるわけです。
私が学生の頃、Sという友人が突然「おい、タデコーラってやつを作って売らないか」と言い出したことがあります。「蓼食う虫も好き好きというだろ、道端や線路際で普通に見かける蓼という野草は酸味や辛味があって食材としては使い物にならないが、その蓼の葉を食べる虫もいる。そういうきわどく不味いものほどハマると受けるかもしれん。コカコーラだってはじめて飲んだ時はウゲッとなっただろ。これが当たれば世界で売れて大金持ちだ」と言うのです。タデコーラは日の目を見ませんでしたが、40年経った今、彼は世界中の弦楽器奏者が頼りにする弦楽器職人になりました。ひとかどの人物になるには、そういう突飛で危ない発想が必要なのかもしれません。閑話休題。
作る側の問題・・・・狭い視野の中で自分のものさしを形成してしまうと、周囲からみると変な音であっても、自分では気づかなくなります。あるおかしな方向にどんどん進んでゆくうちにそれが普通になって麻痺してゆくのだと思います。方向を誤った世界では、どんなに物理特性を良くして行っても誤った道から抜け出せなくなります。しかし、それに同調する人はいないわけではありません。
聞く側の問題・・・・人の耳は騙されやすいものです。変わった音を、なんだかおかしいと感じるか、オッこれはすごいと感じるかは紙一重ともいえます。たとえば、300Hzあたりから下をバサッとカットしたスピーカーでボーカルやピアノを聞くと、音源がものすごく前に出た感じがして魅惑的に聞こえたりします。ウェスターンエレクトリック製の骨董オーディオを売っている都内某所のマンションの一室では、客が来ると必ず静寂の中でドーン・・・ドーン・・・と鳴る和太鼓の音を聞かせるのですが、その太鼓の音だけで感動して買ってしまう人がいるそうです。家に持って帰って室内楽を鳴らして愕然となるわけですが。本稿の冒頭に挙げたへんてこなスピーカーもその部類に入ります。
聴覚の発達を促す
味覚が未発達な人に、出来の良いハンバーグ・ステーキや出汁を濃い目にしたラーメンを食べさせると「おいしい、おいしい」と言って食べます。しかし、そういう人に湯葉を食べさせると「味がしない、どこがいいのかわからない」という反応をします。湯葉はその人の味覚の発達の程度を測定するには非常に具合の良い食べものですので、私は「湯葉試験紙による味覚試験」などと呼んでいます。聴覚が発達した人は、必ずしもオーディオ的に広帯域な音ばかりをいいとは言いません。8cmサイズの100Hz以下なんて全然出ないスピーカーであっても、結構真剣に耳を傾け、「これはすごくいい音ですね」などと言ったりします。彼らは非常にバランスの良い音を出していますが、地を這うような低音をばっちり出しているかというとそうでもありません。スピーカーやリスニング環境によって出てくる音はさまざまに変化しますが、そういった変化の中でしっかりと音を聞き分けています。
料理で言うと、常に絶品系の食べものばかりを食べているわけではなく、普通のごはんにあっさりと味付けした季節の野菜や普通に市場で買ってきた魚などを実においしく食べているのです。優れた料理人ほど、日常、そんな食生活をしていますが、別に節約しているわけではなく、そうやって食を愉しみ、同時に味覚を磨いているわけです。
すごい料理を追い求めているうちは、真に味わいの素晴らしさや喜びに出会うことは難しいでしょう。同じように、すごい音、最高の音を追い求めているうちは、真に音楽や音そのものの素晴らしさや喜びに出会うには、まだまだ道のりは遠いといえます。私たちは、日常的に接するさまざまな場面で出合った演奏や映像、味覚に感動し、時に身震いをしたり涙することさえあります。それを感じ取る能力が問われているのです。12cm口径のスピーカーが置いてあるのを見て「こんなスピーカーではほんとうにいい音など出ないですよ」などど言っているようでは、あなたの感受性はまだまだ未発達ですよ、ということです。
さて、
ここまでお読みになったあなたが、「何が言いたいかだいたいわかったぞ」とおっしゃっていただけるのであれば、とてもうれしく思います。しかし、「おいおい、いつになったらいい音を出すための話が出るんだい」と思っているあなたは、ここに書かれた文章を、目で追っただけで、心で読んでいませんね。そして、相変わらず「こうすればいい音が出る」という安直で、すぐにできる答え、あるいはお金を出せば買うことができる方法を求めていらっしゃいますね。どうですか。違いますか。
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